やなまろのほのぼの日記

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好きな言葉

六然
自処超然(自ら処するに超然)
とかく人間というものは自分の問題となると、いろいろ物に捕らわれて心理が複雑になり、執着したり拘泥したりするものであります。然しそういうことではだめで、事に臨んで自分に関する問題には一切捕われないで解脱しておる、脱けきっておる、という風でなければいけません。
処人藹然(人に処するに藹然)
人に処する場合には、常に好意を持ってなごやかに接する。藹は、春の草木の青々と茂った雰囲気を表す文字で、つまりその人に接すると春の山の霞のかかったようなのんびりとした温い気分になる、そういう雰囲気が藹然であります。
有事斬然(有事には斬然)
斬然という語は唐初からの俗語でありまして、斬という字そのものに確とした意味はありません。日本語ですっきりしておるとか、きっぱりしておるとか、いった意味であります。何か問題がある時は、うろうろしたり、うじうじしないで、活気があってきびきびしておること。
無事澄然(無事には澄然)
何もない時は、氷のように澄みきっておること。
得意澹然(得意のとき澹然)
得意の時はあっさりしておる。人間・得意の時は好い気になって、どうかすると威張りちらしたり驕ったりするものでありますが、そういうことはしない。まだまだ足りないという謙虚さを抱くことだ。
失意泰然(失意のとき泰然)
失意のときは、ばたばたせずにゆったりと落ち着いておる。

六中観
忙中閑あり(忙中につかんだ閑こそ本当の閑である)
苦中楽あり(苦味の中の甘味こそ真の甘味である)
死中活あり(身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ)
壷中天あり(奥床しき別天地)
意中人あり(何ごとによらず人材の用意がある)
腹中書あり(腹中に哲学、信念がある。万巻の書がある)

「ただの閑は退屈して精神が散じてしまう。忙中に掴んだ閑こそ本当の閑でありまして、激しい空襲の中でも10分、20分の短い閑に悠々と一座禅、一提唱できましたが、こういうのが忙中の閑であります。」これについては「プラス思考」とい言い換えたほうが、理解しやすいかもしれません。苦楽をつくり出しているのは「心」に外なりません。切羽詰まった状況下においては、「現実をどうするか」ということよりも、「わが心をいかにするか」ということが大問題です。現実はわが心の繁栄にすぎません。 心に描いた映像はフィルムに焼きつけられて、数日後か、数カ月後か、数年後か、もしくはもっと先に、現実として写し出されるように出来ています。どちらを向いて歩くかは、私たちの選択次第です。そしてその選択によって、未来に現実を味わうことになります。幸せはいつも自分の心が決める。苦楽をつくり出しているのは「自分の心」です。

大変な時「現実をどうするか」ということよりも、「自分の心をどうするか」ということが大問題です。どんな心をもって歩くかは、私たちの選択次第です。現実の状況は「自分の心」の繁栄にすぎません。心に描いた映像はフィルムに焼きつけられて、数日後か、数カ月後か、数年後か、もしくはもっと先に、現実として写し出されるように出来ています。すべては「心の持ちよう」でその後の状況が変わります。未来の幸せを決めるのは、すべて「自分の心」です。

人間はどんな境遇にあろうとも、自分だけの壷中の天を創りえるものです。私たちのまわりにも「えっ、この人にこんな趣味があったの」とか、「こんな奥床しい芸を持っていたのか」とか、驚かされることがあります。こうした自分の別天地を持っている人というのは、いかなる逆境にあろうとも、救われる人です。音楽、芸術、信念、信仰、こうしたものを持つことによって、意に満たない俗生活から解放されます。そうした壷中の天は床しいものです。

「意中有人」は、恋人、伴りょに限らず、何時いかなるときでも間に合う人を知っている、持っているということです。人生を語り合うにはあの友、病気になったらあの先生、死んだときにはあの坊さん・・・ 出世して役職について、さて周囲を固めようと思ったが、自分の手足として動いてくれる人がいなかったということでは、とうてい事はなしえないものです。日頃から、意中の人を射止めておくことが大事です。それから、意中の人は生きている人に限りません。すでに今は亡き先人もときにインスピレーションを与えてくれるものです。